7来るべき昭和十九年度は大東亜戦争の勝敗を決する時、日米英が雌雄を決せんとする極めて重大な年と言われております。味方も敵も全力を挙げて準備を強行致して居るのであります。兵器・弾薬の製造に日夜奮闘する産業戦士の方々の動力源たる食事の供給に日夜奮闘を続ける諸君は立派な給食の産業戦士であり、諸君の真心を込めた食事は工員諸士の真心となり、真心を込めて造られた兵器弾薬となって皇軍将士に送られ米英撃滅の戦に用いられるのであります。我が須田町食堂の創業満二十周年記念日に当たり、私が最も敬愛する店員諸君に対し一言致したいと思います。本日は私が須田町食堂を創業致しまして丁度二十年目に当たるのであります。三月十日を陸軍記念日という我が日本国が有する最大の戦勝記念日と同じくして当店が創業されました事は深き良き縁であります。創業以来、都内(前年7月1日に東京都発足)一般大衆を相手とする須田町食堂の経営に主力を注ぎ、支那事変勃発と同時に漸次(ぜんじ:しだいに)工場給食に注力を注ぎ、引き続き大東亜戦争勃発を契機として工場給食重点経営の大方針を確立しこの方針を漸次強化し現在に有りましては我が須田町食堂の有する全力を尽くして工場給食生産力増強に寄与し国家の要請に答えつつありますのはこの創業の大精神に基づくのであります。● 1943(昭和18)年一般食堂(須田町食堂及び聚楽)は35店、軍需工場や企業の給食54か所、計89もの営業所で従業員数は最大5000名を超え、36万食を提供していたと記録が残っている。食料品の配給は主に軍需工場に割り当てられ、都内の店舗は開店休業状態であったという。【越年の辞より一部抜粋】● 1944(昭和19)年3月10日【戦中の訓示】
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