55● 「流行の最初というものは仕事がしやすいものだ。この潮に乗ってグングン進んでいけば、発展は瞬く間だ。この間に機きせん先を制して発展しておいて、その流れが緩くなった時にぐっと引締めて内容の充実を計るべきだ」この方針のもと、利益は全額拡張費に充て、運営は義兄の伊藤啓けい三ざぶ郎ろう氏、仕入は原田屯たむろ氏、自身は財政を見ながら店舗展開に注力していく。● 1924(大正13)年 2店(須田町、京橋)● 1925(大正14)年 4店(日本橋、銀座、上野第1、浅草)● 1926(大正15)年 2店(駿河台、水天宮) ● 1927(昭和2)年 4店(本郷、神保町、亀沢、神楽坂)+総本部 ● 向こう5年間を以って第一期となし、この間確実な利殖(利息)以外、断じて他の営業に手を染めぬこと。1924年の覚悟の通り、創業から6年間は須田町食堂だけを展開する。● 従業員も不馴れでお客様の気に召さぬ時もあることは承知しております。 少しお時間をください。きっとご期待に沿う様にいたします。 (1931年発刊「市井奮闘傳」より)そして急激な発展によって生じた問題に対し、改善及び更なる店の充実を宣言したのだ。店舗を統括する本部を設け、一括で仕入れと仕込みを行うことにより料理の大量生産を可能とし、原材料費の削減を行いながらさらなる利益を上げる。● 1928(昭和3)年 6店(柳島、小伝馬町、上野第2、横浜第1、横浜第2、高橋)● 1929(昭和4)年 6店(押上、緑町、外手町、猿江、坂本、亀戸)● 1930(昭和5)年 1店(大森) 計25店を次々と開業していった。ここで創業前に書かれた手記に眼を戻してみる。
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