44大正時代の万世橋駅後に写真手前の土地を借りることとなる 8か月後、自らの経験により着眼したのが 「民衆食堂」だった。 縄のれん、いわゆる「一膳めしや」がこれに該当するが、見た目や清潔感に難あり。 洋服階級が増えてきたが彼らは「めし屋」に入ることを良しとしない風潮があった。 洋服を着ている手前、こうした非衛生的な店へ入ることを恥じていたのです。 ちょっとした洋食店はかなりあったのだが1品5.60銭も取られ、チップも取られる。 月給25円の会社員が1食1円を覚悟せねばならないのだ。更に研究を進めてみると東京は急速に都会化しており、人口も増えてきている。市民の生活が都会化するに従って外食をする機会も増えてくる。アメリカ式のチェーン展開で発展の可能性も十分にある。と結論付けた。● 1922(T11)年4月11日 上京。堅実な実業に精進すると決心する。 1 時代が要求しておりそれを充たす施設がないこと 2 実生活に関係深く発展の可能性あるもの 3 社会奉仕と自己営利とが両立するもの この3つの要件を兼ね備えた事業を発見 するには地理と商業事情を知る必要があ ると考え菓子問屋の配達係として住み込む。 のちに抜擢されて外商係となる。 安くて美味いこと 誰でも気軽に入りやすいこと【人生の
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